dellblorin日記

袖擦り合うも他生の縁

麺を啜るズルラーは下品で迷惑

昔、TVで海外では麺を啜るのは下品で恥ずかしい行為と紹介されていたのを覚えている。この記憶がずっと残り、私は段々と麺を啜るという行為に羞恥を感じるようになり止めてしまった。元喫煙者が非喫煙者になり、昔は気にならなかった他人の煙草の煙が気になりだすのと同じで、今は他人の啜る音を聞くと不快感を催す。

私は麺を啜るのは下品だと感じるが多くの人は共感してくれない。中には啜るのがマナーだという人さえいる。

不思議なのは口を開けて咀嚼する人たち、通称クチャラーは批判される点だ。クチャラーに対する批判はクチャクチャ音をたて不快、見ていてだらしないなどだ。

麺を啜る人をズルラーと言えばいいのか分からないが、世の人々はクチャラーは批判するのにズルラーは批判しない、むしろ格好いいくらいに思っている。

ズルラーはクチャラーの上位互換だ。出す音はクチャラーより大きく、鼻水を啜るような音は気持ち悪く食欲が減退する。啜る様は箸を上手く使えない幼児のようで見苦しい。 啜れば麺は踊りあちこちにスープを撒き散らす。テーブルを汚し隣の人の衣服を汚す。これは物理的被害を与える行為でありクチャラーには無い迷惑だ。 麺を啜るというのはどう考えても品性下劣な迷惑行為だ。

こんな行為をどうやったらマナーと主張できるのか、いつの間にか日本は他者に迷惑をかけるのがマナーの国になったのか。

啜った方が香りが強くなる、ワインのテイスティングでも啜るじゃないかと反論する人がいるが、ソムリエだってテイスティング以外では啜らず飲む。迷惑だからだ。

ズルラー、特にそばを食べるズルラーは迷惑行為を格好いいと思っている。これは暴走族と同じだ。だが、暴走族さえ暴走を正しいか悪いか聞けば悪いと答えるだろう。ズルラーは自分達の行為を悪いと思っておらず余計質が悪い。

麺を啜って食べるのをよしとする人々は、少なくともクチャラーを馬鹿にするのは止めるべきだ。殺人犯が万引き犯に説教など猿の尻笑いどころの騒ぎではない。