dellblorin日記

袖擦り合うも他生の縁

「明日、ママがいない」騒動に思う事

 

明日、ママがいない オリジナルサウンドトラック

明日、ママがいない オリジナルサウンドトラック

 

 ドラマ「明日、ママがいない」の内容が不適切だと騒ぎになっています。私はこのドラマを見ましたが、批判するような内容とは思いませんでした。このドラマに対する批判とその態度について、思うところを書いてみます。

慈恵病院を連想させ不適切
ドラマの主要人物にポストという名前(あだ名)がついており、彼女は赤ちゃんポストに捨てられた子という設定です。これが慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」を連想させ、慈恵病院を貶めていると批判されています。しかし、赤ちゃんポストは一般名詞であり、こうのとりのゆりかごを直接指定してはいません。

私はドラマを見るまで主人公達は赤ちゃんポストに捨てられ、捨てられた先の病院で過激な体験(虐待)をしている内容だと思っていました。しかし、実際は架空の児童養護施設が舞台であり、登場人物の一人が赤ちゃんポストに捨てられた過去があるだけで病院など出てきません。これだけで慈恵病院を貶めているというのは過剰反応でしょう。

現実とかけ離れており誤解を生む
ドラマでは養護施設の職員が子供を引っぱなど過激なシーン、台詞が存在します。実際の職員はそんな事はせず、世の養護施設職員に対し誤解を生むと批判されています。しかし、あくまでドラマでありフィクションです。ドキュメンタリーと銘打っているわけでなし、誰も誤解などしません。

警察や民間の大企業等、組織の腐敗を描いた創作物は世の中に沢山あります。「明日、ママがいない」が児童養護施設に対し偏見や誤解を生むのなら、腐敗した組織が描かれる刑事物、医療物ドラマも全て放送出来ないはずです。

そもそも児童養護施設において虐待が全く無いわけではありません。かつて恩寵園事件と呼ばれる入所児童に対する虐待事件も起こっています。勿論、こういった事件があったからといって全ての施設、職員が虐待をしているわけではなく、ましてやフィクションのドラマであったからといって実際にあるなどとまともな人は思わないでしょう。

誤解しない人がいないとは言えない
広い世の中、誤解する人が絶対に出ないとは言いません。しかし、それはドラマが悪いのではなくその人達の頭が悪いのです。手品を見て信じる人もいる、だから禁止しろというのと同じです。そんな知性の人々さえ考慮に入れてしまうと創作など出来ないでしょう。フィクションと知りながら信じるほどの馬鹿は相手にする必要はありません。

番組を見て傷ついた人がいる
批判には視聴し傷つく人(児童養護施設職員や出身者)もいるから放送中止しろというものも多い。しかし、誰も傷つけない、全ての人に好ましい表現などありません。自分にとって好ましくない作品は見なければよいのです。

TVという誰でも簡単に視聴出来る媒体で放送すべきではないという意見もありますが、タイトルを見ても明るい作品でないのは分かりますし、どんな番組か事前に調べればいい。視聴を無理強いされたわけでもなく、自分の意志で視聴して文句を言うのはどうなのか。

調べても完全に内容が分かるわけではないと言うかもしれませんが、物語の内容を全てバラすわけにもいきません。甘い辛い、面白いつまらない、事前に参考となる情報を仕入れても、結局は自分で一度試してみるしかなく、結果、合わなければそこで止めればよいのです。

その最初の味見による失敗、不快感まで取り除こうとすると、世の中に新しい物など生まれてこなくなるでしょう。その程度の不確実性は許容すべきではないでしょうか。

制限が厳しくてもヒットしているドラマはある
ドラマを擁護する側として「制限が厳しくなっていくと面白い作品が作れなくなる」という意見があります。それに対し、同じ今という制限が厳しい時代でもヒットしているドラマはある、だから制限が厳しくなって面白い物が無くなるというのは言い訳という批判もあります。

代表的なのは「あまちゃん」「半沢直樹」辺りでしょう。しかし、逆に考えるとそれ位しかないのです。昔は今以上にヒットドラマが沢山ありました。「半沢直樹」が40%を越えたのも、他にライバルとなるドラマが不在だからではないでしょうか。

一部の現象を取り上げ一般化するのは間違いです。宝くじに当たった人だけを取り上げてあなたも当たる、さあ買いに行こうというのと同じです。そもそも、制限が厳しくてもやれるやれないは関係ありません。今回の騒動はドラマの内容の賛否であり、そこを飛ばして、制限が厳しくても面白い物を作るのは可能なのだから、表現の善し悪しに関係なく禁止にしろというのはおかしな話です。

フィクションなら何でも許されるわけではない
確かにその通りでしょう。しかし、どこまで許されてどこまで許されないのか、批判を読む限りはっきりしません。定義も無いまま放送中止を認めてしまえば、何でもかんでも禁止されゴネた者勝ちになります。

制作側には表現の自由が認められています。自由なら何でも許されるわけではありませんが、それを制限するには説得力のある理由が必要です。フィクションでも許されない一線があると言うなら、批判側にはその一線を示す挙証責任があるでしょう。私にはこれなら放送中止もやむなしと思える批判は見付けられませんでした。

見てないが批判する
はてなブックマークのコメントを見ると、批判と同時に「見てないけどw」といったコメントが多く見られます。ドラマを見てもいないのに批判するのは愚かであり、最低限視聴してから意見を述べるべきでしょう。

作品はまだ終わってもいない
ドラマに対する批判は第一話が放送された時に発生しましたが、始まってまだ一話目であり、映画で言えば十分の一程度。これで碌でもない作品だと決めるのは早計というより暴走です。

ドラマと漫画・アニメで言う事が違う
以前、非実在青少年に関する条例が話題になりましたが、この時のネットの反応は条例を批判する意見が大勢でした。しかし、内容は「明日、ママがいない」よりも規制対象と思われる漫画・アニメの方が過激です。どうしてドラマの方は叩かれたのか。

恐らく、インターネット上のアンチTVの空気が原因だと思います。漫画、アニメの時は規制側を攻撃し、TVの時はTV側を批判するのが気分がいい。ネットの住民はTV(というか旧マスメディア)が嫌いであり、今回の批判も良いか悪いかではなく、好きか嫌いかで判断したのでしょう。そんな身勝手な叩きに正当性はありません。

 

日本人は昔と比べてうぶになったのかもしれません。単にインターネットの普及で顕在化しただけかもしれませんが。かつて放送され名作と言われている作品、例えば「家なき子」だとか「小公女セーラ」などの作品も、今では人権侵害作品であり放送出来ないでしょう。

今回の騒動を見るとフィクションをフィクションとして見る、いわば日本人の視解力とでもいうべき能力が低下したと感じます。こういう時代は、TV番組もゲームのCEROと同じく年齢によるレーティングを設けるべきかもしれません。極端に中止しろ、いや続けろというより、その方が現実的な提案ではないでしょうか。