dellblorin日記

袖擦り合うも他生の縁

安彦良和の偏見によるゲーム当て擦りに不快感

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アニメ「機動戦士ガンダム」の作者の一人安彦良和氏のインタビュー記事を読み雑記を記す。

ガンダム生みの親が今のアニメに感じる疑問

「最近のアニメはますますゲームに支配されていっている。ストーリーのゲーム化、という言い方を僕はしている。ゲームの場合、プレーヤーは絶対者だ。世界はプレーヤー中心に回っている。」

映画、ドラマ、小説でも主人公は物語の中心であり、世界(や業界)を救う話は腐るほどある。なぜそれだけでゲーム化になるのか。どの創作ジャンルでもよく見られる現象ならジャンルは無関係のはずだ。

自分の気に入らない最近の傾向、現象の理由を、自分の若年時代には無かった気に入らない差分に求めているにすぎない。青春期を過ぎた頃に現れた新たな文化に対する、感覚の老いた者によく見られる偏見だ。

「死んでしまってもやり直せる。」

これはゲーム批判でよくあるが今回の主張では意味がわからない。最近のアニメは死んだ人間がすぐ蘇生するのだろうか?

「プレーヤーはどんどんレベルが上がり、より高いステージに登って、最後は神に近づく。美女も宝も全部ゲットだ、と」

これはゲームを知らない人間の台詞だ。彼の矛先は所謂JRPGだろうが他の娯楽と同じく、ゲームには多種多様なジャンルがあり、全てのゲームにレベリングシステムや最終的に絶対的パワー(影響力)を手にできる内容の作品ばかりではない。

こっちを選択すれば手に入らない物、発生しないイベントなどのシステムのゲームも多く、抑圧からの解放が面白さの核であるゲームは、何もかも自分の思い通りになることを売りにした娯楽ではない。言及したいなら最低限対象に関し勉強してからにするべきではないか。

「たかが小僧っ子が、俺が世界の中心だと言わんばかりに戦争を語り、世界を変えると言い張る。変えられるものか、世界は魔物なんだよ。」

それを言い出せばアニメこそ小僧っ子ではないのか。アニメは誕生して間もなく、数千年の歴史のある哲学などと比べれば未成熟な文化だ。そんな文化の小僧っ子、大衆娯楽で世界の真理を活写できる(すべき)という考えこそ傲慢だ。

そもそも彼の最近のアニメに対する批判は昔から大衆娯楽にあるご都合主義である。超人的属性を持つ人物が難題を簡単に解決していく物語、最後は何もかも上手くいき全てを手に入れハッピーエンドを迎える物語。

こんなものは洋の東西を問わず存在、人気を博してきた物語構造である。それを批判するための踏み台としてわざわざゲームを当て擦るやり方は不快感しかない。彼はテロがどうだグローバリズムがどうだと言っているが、社会の衝突は彼のような自分の理解できないものは悪と決めつける偏見が原因の1つだと認識すべきだ。

最後にもう一つ。私はガンダムは夏休みに放送していた映画版(TVアニメの総集編みたいなもの)しか見たことがないが、主人公のアムロ・レイも随分彼の批判が当てはまるご都合主義的な主人公だった。ただの子供が突然巨大ロボットに乗るチャンスに恵まれ、乗ったら天才的な才能が開花し敵を次々やっつけていく、なんてご都合主義の塊でしょ。