dellblorin日記

袖擦り合うも他生の縁

不幸を比較するとどうなるか?

最近は不況のせいか一部の層をことさら哀れだ、可哀想だと同情する論調を見掛ける様になりました、と同時にそういった論調に反感を感じる人達もよく見掛ける様になりました。
そういった人達の台詞は皆同じもので、

  • 自分の方(頃)はもっと不幸だった
  • 他の人はもっと不幸だ

というものです。
彼らは不幸を否定するのに別の不幸をぶつけます。そして私はこの比べる論理の抱える問題点が気になるのです。

ワーキングプアという人達がいます。言葉の通りで働いている貧乏人の事です。当初は年配、大体40〜50代位の人達を指していた様に思いますが、最近はこっちの方が絵になるためか若者を指す場合が多い様です。
彼らが例えば月10万円の収入があり、誰かがこれを可哀想だ、収入が少なくて不幸だと言います。すると「自分の頃はもっと収入が低かったし、世界を見ればもっと少ない人は沢山いる。月収10万円で不幸だというのはそういった人々に失礼だ」という様な批判が起きるでしょう。
この不幸で不幸を否定するという手法には大きな特徴があります。それはこの理屈でいくと”世界には不幸な人はたった一人しかいない事になる”という事実です。

例えば上記の月収10万円のワーキングプアは、発展途上国の人々からすればまだ十分に裕福であると言えるでしょう。しかしその発展途上国の人々であっても、現在のジンバブエ国民*1よりは幸福でしょう。ですがきっとジンバブエ国民もアフリカで少年兵としての運命を背負わされた子供達*2よりは幸福でしょう。そして世界中を探せばそんな少年兵達よりももっと悲惨な人生を歩む、もっと不幸な人がいるのではないでしょうか。

まるで2枚のカードを見比べて不幸という数字を基準にソートしていく様に、最後にはこの世界でもっとも不幸な人が選び出されます。そしてこの世の全ての人間は、最後に残ったその人よりも幸福なのです。つまり不幸を別のもっと大きな不幸で否定するという行為は、世界で不幸な人物を一人しか認めないという事です。

政治家が賄賂を受け取っていたり、報道規制をして都合の悪い情報をシャットアウトし報道の自由を侵害したとします。それでジャーナリストが怒る事は出来ません。なぜなら世界にはもっと不幸な報道の自由自体が無い国があるからです。
国の福祉制度がまともに機能しておらず、様々な障害者に人達が本来得られるはずの福祉を得られなかったとしても、自分達が不幸だと思う事は許されません。なぜなら世界には福祉制度自体未整備な国に住む障害者達もいるからです。
自国の治安や教育水準、倫理感などが低下してきたとしても不幸ではありません。なぜなら世界にはもっと低水準の国がごまんとあるからです。
暴行、強姦、殺人などの犯罪被害者は皆幸福のはずです。なぜならアフリカで誘拐、洗脳され、戦場で戦わされる少年兵達はもっと不幸だからです。

不幸をもっと大きな不幸で否定するという行為は、世界でもっとも大きな不幸以外を不幸と認めないという事、つまり68億人のこの世界の人間達は一人を除き全ての人が幸福なのです。

そんな事があり得るのでしょうか。

何をもって不幸とするのか、それを決めるにははっきりとした基準が必要ではないでしょうか。同じものでも環境によりその価値や重みは変動するものです。同じ1kgでも重いと思う人もいれば軽いと思う人もいます。ならば○○kg以上は重い、未満は軽いと明確な定義をするしかない。
ただ感覚だけで決めようと展開する議論には、あまり価値はないのではないかなあ、と思う今日この頃です。

*1:現在ジンバブエは、独裁者ムカベ大統領の失政により、ハイパーインフレ、深刻な物資不足、異常な失業率等破滅的な国内情勢となっている。

*2:アフリカではゲリラが子供達を誘拐し、戦闘員として強制的に教育し戦場に駆り出している。